第22回写真「1_WALL」グランプリ受賞者個展
伊藤安鐘は、自身にとっての理想郷を探して週末に撮影した作品「終(週)末ユートピア紀行」で、第22回写真「1_WALL」グランプリを獲得しました。セルフポートレートや風景写真を中心に、実在する場所を非現実的な世界のように写した作品では、展示を通して、理想郷を探す“私”がそこで待つもう一人の“私”に出会うという物語が展開します。審査員からは、自身の思い描く世界を第三者的視点で表現する展示の構成力や、週末の撮影やセルフポートレートといった要素をテーマと結びつけ展開する力が評価されました。
荒涼とした大地や、日の光を反射する水面、風になびく植物など、伊藤は現実世界にカメラを向けながら、その先に、自身の思い描く理想郷を重ねて撮影しています。それは、意識の内側にある自分にしか見られない世界を、写真によって、視覚的に明らかにしようとする試みともいえます。
個展では、“私”が探し出した理想郷に深く入り込んで見た世界を、作品を通して表現します。写真のほか、映像やペインティングと組み合わせた新作など、異なる技法を展示に取り入れ、伊藤の描く世界を多角的に表します。受賞から約一年後の個展を、ぜひご覧ください。
会期中の3月10日(水)には、写真家の野口里佳さんをゲストに迎え、撮影する行為から得られるものをテーマに、トークイベント「写真は『リアル』なのか」を行います。
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展示に寄せて
幼い頃は、目を開けてもなお幻想が見えた。
隣で寝ている父親の背中に当時好きだったキャンディの形を模したチーズが転がっていたり、頭上を十二支の動物たちがキラキラと揺らめき歩いていたりした。こんな話をしても母親にすら信じてもらえないだろうと思い、誰にも話さずにいたがその幻想はとても不安定で集中力をたえず働かせていないと消えてしまいそうなものだった。(絶対に覚えておこうと思っていたおかげで今こうして文章になっている。)
そしてそんな現実の記憶はどこまで確かであるのだろうか。
どこまでを現実とするのだろう。
ある時は、夢で見たものと非常に似ている景色と出会ってどちらが現実なのか分からなくなった。
歪みの中に入った気分であった。
私たちの脳ミソは実は出来が良くなくて完璧な修理もできない。
記憶下の日々は退色していく。
目の前の景色を留めておきたいから、あるいは記録として写真を撮ると言う人が世の大半であろうが、私はもう一つの世界として収めたいと思っている。要するに先に挙げたような無意識下で作られた世界を撮りたいのである。
この景色が見られるのは私しかいない。
ならば記憶から消えてしまう前に残すべきだろう。
伊藤安鐘
審査員より
伊藤安鐘の写真は、ポータブルなカメラの誕生とともに生まれた、カメラという機械のinstant(簡易的・即時的)な性質を、新たに捉え直すものである。彼女が撮影する、匿名的で無国籍な風景は、現代日本ではない別のどこか、あるいは別の惑星で撮影されたもののように見える。だが、彼女のシリーズ「終(週)末ユートピア紀行」のタイトルに示されているように、彼女は、その世界の果てのような「終末」的な光景を、彼女のささやかな「週末」に撮りためていった。どこでもないユートピアあるいはアトピア(=非場所)は、現実には、関東近郊ないし郊外で撮影されている。地球外のSF的光景を撮影するために、ものものしい道具立ても、機材もCGも一切必要ない。被写体が必要であれば、自分が被写体になればよい。そこに二人の人物が必要なら、二枚の写真を重ね焼きすればよい。彼女の写真は、このようなinstantな性質に貫かれ、そして、カメラのinstantnessとは本来どのようなものであったかを思考するのだ。その意味で伊藤の写真には、『惑星ソラリス』のシークエンスを東京の首都高速道路で撮影したタルコフスキー、そしてSF映画という枠組みにおいて、すべて現実のパリ市街でのロケーション撮影を貫いた『アルファヴィル』のゴダールと同じ、非在の場所をいかに表象するかという問題に対する、毅然とした態度が存在する。実際、そのような光景こそ、真に非場的な場なのである。そのようにしてカメラは、現実からの跳躍を可能にし、私たちの前に、ユートピアをつくりだす。
沢山遼(美術批評家)