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展覧会レビュー|金村修

2016.6.13 月

金村修 Osamu Kanemura

写真家 1964年東京都生まれ。1992年、東京綜合写真専門学校在校中にオランダ・ロッテルダム写真ビエンナーレに招聘される。1997年、日本写真家協会新人賞、第13回東川町国際写真フェスティバル新人作家賞、2000年、第19回土門拳賞を受賞。写真集に『Spider’s Strategy』『In-between 12 金村修 ドイツ、フィンランド』『German Suplex』ほか、著書に『漸進快楽写真家』がある。

ミートソースの素。期限切れ処分品として半額にされたメンチカツ十個入りの袋。ピーナッツの皮の下に敷かれたテーブルクロス代わりの巨乳アイドルのチラシ。プラスチックのパッケージに入れられた海苔巻きや稲荷寿司。写真に写る食卓の上のそれらが、一メートル以上に引き伸ばされ原寸大を超えて展示される。一メートル以上に伸ばされたダイドー缶コーヒー。人間の頭並みの大きさの皿。人間の身長ぐらいの畑のダイコン。それに新興住宅地の家が、隙間無く並列して並べられる。現実のスケール感は無視され、ビックサイズに伸ばされたそれらの被写体が通常の遠近感を狂わせ、違う空間を現出させる。日常の食卓や部屋の様子を再現するというよりも、むしろコラージュされた空間に近いだろう。遠近感の崩れたこのコラージュ空間は、私たちの日々体験している日常空間ではなく、もう一つの異次元的な空間だ。ウォルト・ディズニーがLSDの幻覚体験で、体以上に大きくなるダンボの耳を幻視したと言われているように、サイズを狂わせることで生まれた題府基之の展示空間は、アシッドやダウナー系特有のドラッグ的な感覚に近い。

サイズが変化することで現実の距離が破壊される。被写体に寄ったり引いたりするだけで現実は変容するのだ。ロールサイズで原寸大よりも拡大された写真。化学調味料を筆頭に工業製品で溢れた食卓のテーブルが勝手気ままに切り取られ、拡大されている彼の展示空間では、工業製品がダンボの耳のように魅力的な何かに変質する。それはもう現実の工業製品ではない。

ヘロイン中毒者はうっとりしながら壁を見る。薬が効いているあいだは、ずうっと何も起きない壁を見続ける。「何事もない穏やかな日々です。」。何も起きないことは退屈なことではなく、ジャンキーにとって何も起きないことがまさに至福の瞬間なのだ。ぼんやりと壁を見続けていればそこには色々なものが現れる。壁の沁みが突然大きくなり壁一面を覆い出すかもしれないし、何か違うものに変質するかもしれない。何も起きないからこそ、そこに何かが現れる。

題府の写真には特別な何かが写っているわけではない。日常的に目にするものばかりしかそこには写っていない。これは何だろうとこちらの気を引く存在ではなく、気づくことも特別に注視されるものでもない。けれどそのように無視され通過してしまう平凡な日常品だからこそ、対象が立ち現れるのではないだろうか。誰もが目を引く特別なアクションや非日常的なものがそこに生起すれば、そのアクションや非日常性に目をとられて、その空間に存在する無限の細部を消去してしまうだろう。何も起きないことが重要なのだ。何も特別なことが起きないからこそ細部が現れる。LSDが現実の細部を魅惑的な細部に変容させるように、退屈で何も起きない現実を題府は快楽の対象に変容させる。