湯けむりの彼岸に
温泉が好きで、日本はもとより外国の温泉にもずいぶん入ってきたが、日本の田舎の、どうってことない温泉場に漂う独特の「彼岸感」は、ほかの国にはなかなか見つからない。いくらおしゃれな建築にしようが高級エステや豪華料理を入れようが、そんなことで真の「非日常」を演出できはしない。非日常はすぐそこに、日常のすぐ裏側にびたっとくっついているものだから。
村上仁一の『雲隠れ温泉行』を2007年に初めて見て、最初はそれが現代の、若手写真家による作品とは信じられなかった。荒れたモノクロの画面は1960年代のコンポラ写真のようでもあり、ときに戦前のアマチュア写真家の作品のようでもあり、しかしそれが弱冠30歳の写真家であるという事実。それは本人の、というよりも日本の温泉が、どんなに近代化されようが拭い落とすことのできない、時代を超越した「彼岸感」にまみれたままであることを、確信させてくれるのでもあった。
そして2015年の展覧会である。通常の写真展とは異なり、ネガのベタ焼きから、指示の文字がそのまま残る写真集の校正紙までが、小さな空間いっぱいに並べられている。壁のプリントも大小さまざまで、眼の焦点が絞りにくい。こんなふうに歩く速度も、視線のピントも揺らぎながら、村上さんは温泉という彼岸をめぐってきたのだろう。
「有名な秘湯」から「ただの秘湯」まで、温泉にもいろいろあるが、その空気感は有名=上質というものでもない。あるものには場末に見える場所が、あるものには旅の果ての棺桶のように心身にぴったりはまったりする。
写真作家を志しながら、うまく進んでいくことができず、すべてを捨てて北の国を経巡った日々を、村上さんはこんなふうに書いていた――
アパートを借り、適当な仕事につくと、中判カメラ、一眼レフ、レンズ諸々全ての機材を売りに出した。写真を半ば諦めるつもりだった。自分がどうしたいのかよくわからなかった。とにかく歩き出すことにした。記念撮影用にと未練がましく残したコンパクトカメラで北海道のあちこちをひたすら歩いて写した。僕はもう写真を諦めたのだから、何を撮っても僕の自由なんだと思い、写真を撮り始めた頃の純粋な撮る喜びが戻ってきた。不況の煽りを受けた真冬の北海道の街はどこも閑散として活気がなく見えた。僕はますます錆び付いてくすんだ風景や事物に引き寄せられるようになっていった。
(『風の旅人』2007年6月号より)
展覧会場の入口まわりには小さなプリントがたくさん貼ってあるのだが、そのなかに「老神温泉」と電柱に書かれたカットがあった。「老いた神」・・まさにその名にふさわしい、どっしりかまえた日本という風土が、ここにある。
たしかに「錆び付いてくすんだ」村上仁一の写真。でもそれは狙いすましたコンセプトとしての「錆び付いてくすんだ」ではない。どんなにリゾート開発が進み、秘湯が「秘」ではなくなって、携帯やWi-Fiが使えるようになっても微動だもすることがない、日本の根っこにある「錆び付いてくすんだ」光景だ。村上仁一の写真は、それを「観賞」ではなく「突きつけて」くるように見える。