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展覧会レビュー|大浦 周(埼玉県立近代美術館学芸員)

2019.7.31 水

大浦 周 Itaru Oura
1981年仙台市生まれ。埼玉県立近代美術館学芸員。早稲田大学大学院文学研究科人文科学専攻美術史学コース博士後期課程単位取得退学。
2013年より現職。「辰野登恵子 オン・ペーパーズ」(2018年)、「NEW VISION SAITAMA 5 迫り出す身体」(2016年)などの企画展を担当。

 日本では3年ぶりの新作個展となるこの展覧会のために横田大輔が採用したのは、これまでとは異なる展示方法―ガーディアン・ガーデンの空間を壁ごとに区分けするように配した、映像作品、PVC(ポリ塩化ビニル)にUVプリントしたイメージ、パネルにマウントした印画紙に焼き付けた写真などによる「構成」―である。
 その「構成」の起点は10台のブラウン管テレビを使った映像作品である。そこに映し出されるのは、横田が長年にわたって撮影してきたホテルの部屋、旅をした土地の何気ない風景、訪れた洞窟の内部の光景などである。静止することなく流れ続ける膨大なイメージの集積から選ばれたいくつかのイメージが、大判のPVCにダイレクトプリントされ、さらにそれをネガにしてパネルにマウントした印画紙に定着される。洞窟の内部をとらえた映像は、複製を繰り返して粒子の粗い映像に加工した上で、OHPシートに印刷したものをネガとして印画紙に焼き付けている。各作品は、そのイメージがすべて映像作品に含まれているという点において直接的に関係し合っており、また映像作品は撮影し得たイメージに、PVCシートはフィルムに、パネル作品はイメージが支持体に定着された状態にそれぞれ対応し、全体で写真という技法の比喩となっている。
 これまでとは異なる方法を採るに至った動機については、横田自身の言葉で明確に説明される。自分の蓄積してきた制作方法を整理し可視化して提示することで、問題意識の持続のうちに別の回路を探る、ということだ。横田が自身の方法論自体を検討の俎上にのせる、批評的な態度に基づいて企図された構成であることは明らかである。

 一方で、この構成を展示の機会を前提とした「見せ方」として捉えたときには、異なる側面が見えてくるだろう。横田は今回の展示でイメージ自体にはほとんど手を加えることなく、撮影し得たイメージを「見えにくくする」操作に徹している。横田の手法としてよく知られているようなデジタルカメラで撮影した画像の事後的な編集、出力・複写・転写を繰り返す複雑な加工、熱湯現像をはじめとする特殊な技術など、イメージに執拗に手を加える手法に比して、極めて控えめな手つきが徹底されているのである。
 ここで企まれているのは、見る者の知覚に介入し認識のプロセスを遅延させることであろう。例えば、支持体に定着させたイメージを「物理的に重ねる」といったシンプルな方法によって、作品との一対一の関係を阻害し、即座に了解される、あるいは無条件に没入可能なイメージから鑑賞者を遠ざける操作である。
 PVCシートにプリントされた作品を見てみよう。そこに10台のモニターに延々と流れ続ける映像から選ばれたイメージがプリントされていること自体は、直感的に了解される。しかし、そのイメージが透明な支持体を貫通して互いに重なり合い、同時に背後の壁面までもが微かに透けており、それらが一挙に受容されるため、イメージは物理的に層をなし光学的に透過し合い、個々の把握は困難となる。あまつさえ、イメージを捕捉しようとする知覚のはたらきは、直前に映像として見たという既視感に引き摺られかけもするのである。
 このような「見えにくさ」が鑑賞者に要求するのは、眼前にあるものを認識するプロセスや方法そのものを意識的に捉え直すことだろう。本展に寄せた横田のステイトメントから引用すれば、写真を見る行為には、複数の対象が同時に存在している。「目の前にあるグレーまたは色彩の諧調、その像が指し示すオリジナルのなにか、または自身の記憶にある類似の光景、そしてそのイメージの支持体となる物質」が。イメージはこれら複数の対象の間を移動する流動的なものであり、特定の支持体に定着した状態は一時的なものにすぎない。イメージの即時的な把握を阻む「見えにくさ」は、イメージの転移それ自体に意識を向けさせるためにこそ仕掛けられているのではないか。

 最後に付け加えるならば、本展における横田のイメージへの関わり方が抑制的であることは示唆的に思える。表現する主体として能動的にイメージに働きかけるのではなく、イメージそれ自体がおのずと流動的な状態を希求し定着する先を選び、作家がその自発的な運動の一部となったかのような印象さえ与える関わり方とはいえないか。そうした姿勢は、今日において写真というメディアを選んだ表現者にとって半ば必然であり、かつその可能性を開拓するための正当な方法に思える。本展を「セカンド・ステージ」の出発点として、横田の次なる展開は豊かな選択可能性に開かれている。