酒井瑛作 Eisaku Sakai
編集者、ライター。1993年相模原市生まれ。立教大学社会学部社会学科卒。写真を中心に執筆。直近では『広告』の執筆、編集を担当。
「whereissheus」についてのノート
グループ展「whereissheus」は、池崎一世、佐藤麻優子、染井冴香の3人の写真家が、自らを被写体として撮影したステージドフォト形式のポートレートを中心に構成され、家族、男女など様々な人間関係を演じたイメージが、空間を囲うように横一列に並んでいる。今回発表された作品は、3人がお互いの写真に類似性を感じ、さらに、共通の表現形式を選んでいたことから端を発している。その形式が何を示しているのか、そして、それはどういった経験だったのか、をメモの形で記述する。
1 撮影形式―3人の共通点
前提として、あらかじめ場面を設計して撮影するステージドフォトは、作者によるコントロールが色濃く反映される形式であり、池崎、佐藤、染井それぞれの制作で採用している共通の形式でもある。また、自身を被写体とする点も共通し、自身の演出を通じて、個人の内面世界の表現を、作家自身のコントロールの下で行っている。
今回は、コントロール=演出を自身以外にも向け、また自身へ演出を差し向ける。3人は、約2年におよぶ期間、断続的な対話を繰り返しながらお互いの記憶や思考、撮影方法に至るまでを共有し、撮影を通じて個人がつくりあげてきた「舞台」へと招き入れ、足を踏み入れていく。この試みの主眼は、3人の協働による撮影形式(ステージドフォト)の変形が、何を示すのか、にある。
2 演じる方法ー他者になり代わるイメージ
撮影で演じられるのは、記憶に残っている過去の出来事。とくに家族や男女などの人間関係にまつわる出来事に焦点が当てられている。記憶とは、私とは誰であるか、を規定するもので、人間関係の記憶は、他者(=社会)による自己規定が含まれる。この自己と他者の位置に3人が入れ替わり配置され、ロール・プレイング(他者の役割を演じる)することで、様々な仕方で関係を結び、自己規定を曖昧なものにしていく。
作品はどれも演じられることによる比喩に満ちたイメージ(女性が男性を演じる、異なる年齢を演じる)であり、記憶の忠実な再現ではない。そのため鑑賞者は、どのような記憶であったかというよりも、どのように3人が変貌し、他者になっているか、のイメージを目の当たりにすることになる。そこにあるのは、人間関係の実体のなさであり、イメージごとに変わるがわる形を変える不定形な運動である。
3 展示形式―ぼんやりとした人格
展示会場では、リーフレットを参照しない限り、誰による撮影かは示されていない(会場内に配置されたタブレット内の会話録でも、誰の発話か明示されていない)。また、ひとつひとつの写真にそれぞれの作家性は残されているものの、シャッターを切った人物が作者であるとは言い切れない曖昧さがあり、作者が占めるはずの位置には、この人と指差せない、「私」というより「私たち」と言えるようなぼんやりとした輪郭の人格が立ち上がっている。
他者を演じる実践を撮影するということは、シャッターを切る人物という別の他者を導入することでもある。ここにも3人が入れ替わり配置されることで、目には見えない存在=ぼんやりとした人格を生む。そしてそこで鑑賞者は、3人と同じカメラを覗く位置に立たされていることに気づき、「私たち」の一人となる。こうして、3人がつくりあげる舞台にあがり、ぼんやりとした人格へゆるやかに溶け合っていく。それは、作品(あるいは作家)と鑑賞者との間で関係を結ぶことであり、イメージの中で実践されている「私」自身を曖昧にする関係であり、あなたは私である、と目の前の対象(=他者)になり代わる実践に巻き込まれることである。
4 鑑賞者の体験―写真によって開かれた通路
ひとつひとつの作品で示される人間関係は、程度の差はあれど、ありふれた人間関係と言える。しかし、3人による試み全体では、人間関係が本来持つ不定形さや自他の曖昧さといった普段は出会うことのない現実のあり様が示されている。こうした作品に触れることは、「私」を規定するものを知るという経験になるだろうし、「私」からの解放という清々しさと葛藤や不安を同時に呼び起こすような経験にもなるだろう。写真という共通点から始まり、3人の協働によって生まれた今回の形式は、このような経験への通路を開け放ち、「私」あるいは目の前にいる「あなた」と真摯に向き合うことを求めているように感じる。
今回の展示には、物を撮影した写真もある。関係する、という意味では、人間以外の動物や無機物もその対象になり得るかもしれない。また、今回撮影した写真を、3人が鑑賞者として見るという作用が、今後の協働にどのような変化をもたらすのか、引き続き見てみたいと思った。