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展覧会レビュー|桝田倫広

2016.9.16 金

桝田倫広 Tomohiro Masuda

1982年東京都生まれ。東京国立近代美術館研究員。早稲田大学非常勤講師。早稲田大学大学院文学研究科人文科学専攻美術史学コース博士後期課程単位取得退学。2010年10月より現職。「実験場1950s」(東京国立近代美術館、以下同、副担当、2012-13年)、「フランシス・ベーコン展」(副担当、2013年)、「あなたの肖像―工藤哲巳回顧展」(東京での主担当、2013-14年)、「高松次郎ミステリーズ」(共同キュレーション、2014-15年)、「No Museum, No Life?—これからの美術館事典」(共同キュレーション、2015年)などにかかわってきた。

私の通った小学校の図書室の、入り口左手の本棚には、『怪人二十面相』や『人間豹』などといった江戸川乱歩のシリーズが揃っていた。60-70年代に刊行されたと思われるそのシリーズの並ぶ姿は、いやにおどろおどろしく、手に取ることさえためらわせた。だが、ひとたび手に取ってみれば、その妖しい表紙のイメージは私の心を惹きつけもした。

ラミネートで補強された固い表紙をめくり、中身の紙に触れると、これまで多くの人が手に取ったせいであろう、油と湿気を含み、やたらしっとりしている。紙の匂いに混じり、ほこりや黴、そしてその本を手にした人間の匂いが染みついている。表紙のラミネート加工は、もちろん汚れや破れなどの劣化を防ぐためにあるのだが、むしろこの臭気を閉じこめるためになされているように思われた。頁を繰るだけで、あたかも悪い病気に感染するような気分になる。いや、事実、感染したのだ。1冊終わったらまたその次と、江戸川乱歩のそのシリーズばかりを私は読みふけったのだから。ところが肝心の本の内容は、今となっては殆ど思い出せない。ただ、本の存在感や紙の質感、匂いだけを覚えている。

唐突に個人的な話から始めたことを許してもらいたい。しかも誰もが大なり小なり経験したことのあろう至極ありふれた話でさえある。しかしながら、何故そんな話を冒頭に述べたかと言えば、飯田竜太の彫刻作品が展示されているガーディアン・ガーデンに充満する匂い―それは本の匂いではなく、木の匂いなのだけれども―が、本についての私の記憶を引き出してくれたからである。

飯田の手口はいかにもシンプルだ。本棚にあるすべての本を1冊ずつひっくり返して並べ、その過程と結果を映像や写真に収める。さらに被写体にあった本棚を実際に展示室に置き、本の代わりに薄い木の板をそこに並べる。本棚に立てかけられた木材の背の高さは、当初本棚に並んでいた本のそれに合わせている。ちなみにギャラリーに充満する匂いというのは、本の代わりに置かれた木材の香りである。このように展示室には、本が並べられたごく普通の本棚の写真、ひっくり返され題名の見えなくなった本、言ってみれば固有名を失い、本という存在そのものに還元されたものの並ぶ棚の写真、そして本の代わりに木片の置かれた実物の棚という三つの様態が提示されている。これらは、ある特定の名称を持つ本が匿名の事物へ変容する一連の手続きとして認識できるだろう。この置き換えは、まったく理に適っている。というのも、紙の原材料であるパルプは木などの植物繊維であるため、本から木への移行は本の事物としての元来の属性を顕わにすることになるからだ。このたび飯田の採用した手法は、通常、文字を読む媒体としての本の事物自体の存在性を浮かび上がらせている。では飯田の述べる彫刻とは、本というかたちを文字から解放し、事物へと還元し、それを積み上げ、量塊として表すことだけなのだろうか。

私たちにとって本を読む行為とは、そこに印刷された字面をただ追うことだけではなく、本そのものの重さ、質感、そして匂い、あるいはそれを読む私たちが予め持っている知識やそのときの精神状態、周囲の環境などの経験の総体ではないだろうか。であればこそ、私はかつて読んだ江戸川乱歩の小説の中身を忘れてしまっていてもなお、それを手に取ったときの緊張感や恐怖感という切実な印象を思い出すことができる。これは、たとえまるっきり同じ本であったとしても、誰もが経験するとは限らない、きわめて個人的なものだ。けれども本は殆どの場合、複製物である。単行本であるにせよ、文庫本であるにせよ、豪華本であるにせよ、はたまた電子書籍であるにせよ、同じ文字情報を収録した本は、どの版であっても内容は同じである。にもかかわらず、その複製媒体を事物として手に取る私たちの経験は、ひとりずつ異なる。

飯田は本をひっくり返すという行為を通じて、「世界」をひっくり返す。(映像のなかで、彼は実際に『世界』という本を裏返している。)それによって試みられているのは、普段、そこに刻印された文字情報のために後景へと退いている、本の持つ別の側面を取り出すことにあろう。それは本という存在そのものについての個々人の経験である。すなわち飯田の作品において「彫刻」と名指されるものは、目の前にある実体ではなく、それを触媒にして呼び起こされた私たちの経験のかたちなのではないだろうか。私たちは、無垢の木材となり果てた事物としての「本」の集積に、それぞれの記憶に眠る本のかたちを投影する。この彫刻的営為は、まだ見ぬ存在を顕わにするのではない。私たちのうちに既に刻みこまれているものを顕すのだ。