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光岡幸一インタビュー

2023.2.3 金

プロジェクトベースの作品を、インスタレーションやパフォーマンス、写真、ドローイングといった手法を使って制作している光岡幸一さん。身近な友人たちのポートレート作品で第13、14回写真「1_WALL」ファイナリストに選出され、その後も個展の開催、グループ展、芸術祭への参加など、精力的に活動を続けています。本インタビューでは、現在の制作スタイルのきっかけになったエピソードや、制作の核にあるものについて伺いました。

まず、光岡さんの幼少期についてお聞かせください。
適度に外で遊ぶし適度に中で遊ぶ、平凡な子でした。他の人がやっていなかったことといえば、小学校の下校時に石を拾ってきて、ハンマーで割って中を見ることに一時期ハマっていました。黒い石なのに割ってみると赤かったりとか白かったり。中身が気になる石を毎日一個拾っていました。登下校の20分って子どもには長いので、何か楽しみを見つけようとしていたんでしょうね。
美大進学を意識し始めたのは中学3年生の春休みです。当時ガラケーで着うたとか待ち受けを漁っていて、その中で宇多田ヒカルの「traveling」のプロモーションビデオをたまたま見つけ、自分もこれを作る人になろうと思いました。小さい画面の映像を一日何十回も見て、宇多田ヒカルと仕事をしたいって思い、とりあえず美大に行って映像を作れば会えるんじゃないかなと、武蔵野美術大学の空間演出学科を受けました。併願で建築学科も受けたら、建築学科しか受かんなくて。でも、とにかく浪人をしている時間がもったいない、一日も早く宇多田ヒカルに会わなくちゃと思っていたから建築科へ入学しました。入学してから映像学科があることに気がつきました。

PVが美術への入り口だったのですね。武蔵野美術大学建築学科へ入られた後、3年時に油絵科へ転科されています。これはどのような理由でしたか?
建築学科の2年生前期の課題で6世帯分の集合住宅を作る課題がありました。そこで僕が出したのは、路上生活者の方々を誘致して生活をしてもらうというものでした。東京に来て、初めに気になったのが路上生活の方が普通に新宿とかで寝ていることでした。豊田の田舎では見たことなくて、凄くびっくりしたんですけど、みんな見えない、透明人間みたいに扱っているのが凄く不思議だなぁと。
そこから新宿西口公園の炊き出しを手伝ったりしました。ポジティブでもネガティブでもなく、なんか気になる。外的環境から身を守ることを建築の原点としたとき、あの人たちの作っている家って原点的なものなのかもしれないと考えました。人が住みたいと思う気持ちが結晶化したみたいな、すごいピュアな建築みたいに見えて。そういう思いで課題を持っていったんです。
すると、その担当教員の先生に「君がやっていることは建築じゃなくてアートだね」と言われて。じゃあ建築とアートって何が違うんだろう。建築って言葉を突き詰めて考えた結果、そうなっただけだったので、アートとかわかんないしどうしよう。このままだと建築学科でやっていても馴染めなさそうな気がする。でも生半可な気持ちで油絵科に行くのは違う、何か1つ作品を作ってから決めよう、そう思い、東京の下宿先から愛知の実家まで歩いて帰ることにしました。

それが「その間にあるもの」(2010)です。コンビニで紙の地図を買って、地図の端まで歩いたらまたコンビニで次の地図を買って歩く、ということを繰り返し2週間くらいかかりました。ずっと知らない道を歩いているんですけど、地元に帰る道なのである一歩を境に自分の地元に踏み入れる一歩があるんですよ。2日目くらいからもう全身ちぎれるくらいの筋肉痛になるんですけど、ヘトヘトになりながら一歩踏み出したら「あ、ここ知ってるわ」と思った瞬間があった。それまで歩いてきた道がばーっと走馬灯みたいに駆け巡って、「東京と愛知って地続きに繋がってるんだ!」と、当たり前のことでも少し見方とか関わり方が変わるだけで感じ方が全然違う。これってなんかアートっぽいと思って。その実感から自分の作品を作るということが始まった気がします。

在学中から様々なコンペティションへ出品していますね。2015、16年には2回続けて「1_WALL」※のファイナリストに選出されました。
作家になりたいからコンペに出すというよりは、作品を見てもらいたいから出していました。「1_WALL」についても写真を使っている作品だから出せるだろうと思って応募しました。ただ、審査内容はあんまり響いてなかったかもしれません。「あ、そっか、なるほどな」みたいな。審査の方式が、作家が喋って、審査員が喋ってじゃないですか。もう一回話せればな、と思っていた。後出しジャンケンじゃん、みたいに感じました。でもそれは自分の作品のクオリティのこともあるし、なんとも言えない。審査結果には全然文句なくて、自分がやり切れてなかったんだろうな、どっかで合わせちゃったんだろうなって悔しさがあったんだろうなと思います。もっと自分が持ち味を出し切れば、さらにいい作品にできただろうなって。しっかり考えてやったので、後悔はないです。「1_WALL」は100点を出す場所でなくて、失敗というか、出し切ってみて反応をみるという場だったなと。
※ガーディアン・ガーデン主催の若い才能を発掘することを目的としたコンペティション。「グラフィック」と「写真」の2つの部門で、2009年から2022年まで開催。

ご自身の制作の中で転機だと思う作品や出来事はありますか?
武蔵野美術大学の油絵科を卒業した後、東京藝術大学の大学院に進んで、上野公園の炊き出しを見かけるようになりました。たくさんの人が集まっていて、物資を積んだ台車とかもズラーッと並んでいて。毎週見ていると台車と持ち主が一致してくる。たまたま蔵前の方に遊びに行ったとき、見知った台車が放置されていて、これは黒いキャップのおじさんのやつだとわかりました。台車には警察の書置きが貼られていて、「何月何日までに撤去しないと捨てますよ」と書いてあり、なんで大切なものを放置しているんだろう、とよく見たら台車の脚が一本折れていました。高齢の方だったので動かせなくなったんだろうと思い、その場でレンタカーを借りて、アトリエに全部運び込んで台車を作り直して、置き手紙と一緒におじさんに返そうといつもの炊き出しの場所へ運びました。

その一連の流れをインスタレーションにまとめたのが「夢をみない夜」(2013)です。レンタカーを運転しながら、「なんで話したこともないおじさんのために一万数千円も払って、でかいバン借りて運転してるんだろう」と思いつつ、作品を作ることで自分の人生が動かされているという爽快さと、作品ってこうしてできていくんだろう、と確信みたいなのを感じて、すごく嬉しくなりました。制作を通して、見るはずもなかったものを見、感じるはずもなかったものを感じることができる。何かと関わりながら作っていくことの楽しさを知り、作品って自分の人生を動かしてくれるものであってほしいという実感を持った出来事です。

その後も人や場所との関係性を起点に制作を続けていらっしゃいますね。最近では無機物にアテレコする映像など、映像作品も制作されています。
アテレコを最初にしたのは熱海のレジデンスで作った「石のいし」(2021)です。伊豆半島って砂浜じゃなく、石がたくさん転がってるんですね。日が沈んだ後に、高波で動いた石が一斉にがらがらがらってきれいな音を出すんですよ。この音は人間が生まれる前からずっとここで鳴っていたんだなと思いました。ビーチが坂道になっていて試しにいろんな石を転がしたら、みんな違う転がり方をする。石が転がっている様子に石の意志みたいなものを感じて、面白いなと思って。石が転がる映像だけでも良かったかもしれないけど、石の気持ちになるために僕が「ゴロゴロ」と声を当ててみたら、自分で見ても笑える作品になり、今までそんな作品なかったなあ、これは面白いかもと思い、そこからアテレコの作品をつくり始めました。その後の風に飛ばされるレシートを使った作品「ゆくすえ」(2022)ではもっと意味のある言葉を話すようになったり、期限切れのクーポン券には「明日があるさ」を歌わせたりしました。

 

今後の作品制作について、光岡さんが大切にしていきたい感覚はなんですか?
この1年半くらい、制作をしていて「この奥にもっと何かあるな」という予感があって、それに触れたいなと思っています。わかりやすい言葉で今の状態を説明することはできるかもしれないけど、わからないまま進んで行った先にもうちょっと面白いものがある気がする、もう一本の脇道がありそうな気がするんですよね。石が転がっていて面白い、でもそれって石が転がってるだけじゃないですか。どう説明してもただ石が転がっているだけなんですけど、でもその状況をそのまま見せることで、もっと深いところにいけるんじゃないかなと思っていて。その奥にあるものに触れたい、というのが今の一番の欲求です。だからと言ってひとつにずっと向き合うというよりは、いろんな方向に興味が向いて、そのうちに遠いもの同士がつながって一気に開けるような気がしています。
僕は言葉で全部説明しようとすると上手くいかなくて、何か「面白いのありました!」というのがベースにあって、その面白さを熱弁することで作品ができている。小学生の時に拾った石を割ってみたら中身が綺麗だったから誰かに見せたい、という気持ちからずっと変わっていない気がします。
(収録:2022年11月25日)

光岡幸一

名前は、字が全て左右対称になるようにと祖父がつけてくれて、読みは母が考えてくれた(ゆきかずになる可能性もあった)。宇多田ヒカルのPVを作りたいという、ただその一心で美大を目指し、唯一受かった建築科に入学し、いろいろあって今は美術家を名乗っている。矢野顕子が歌うみたいに、ランジャタイが漫才をするみたいに、自分も何かを作っていきたい。一番最初に縄文土器をつくった人はどんな人だったんだろうか?
主な個展に2019年「あっちとこっち」(外苑前FL田SH/企画 FL田SH)、2021年「もしもといつも」(原宿 block house /企画 吉田山)。
2021年写真新世紀優秀賞(横田大輔 選)、広島市現代美術館企画「どこ×デザ」蔵屋美香賞受賞。