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展覧会レビュー|増田玲(東京国立近代美術館主任研究員)

2017.10.16 月

増田玲 Rei Masuda

1968年神戸市生まれ。筑波大学大学院地域研究研究科修了。1992年より東京国立近代美術館に勤務。近年担当した主な展覧会に「ジョセフ・クーデルカ展」(2013年)、「奈良原一高 王国」(2014年)、「トーマス・ルフ展」(2016年) など。

できごとを語る − 松本美枝子写真展「ここがどこだか、知っている。」について

今回の展示は、6つの作品で構成されている。各作品はたがいに連関し合い、個展全体として一つの作品を成している。メインとなっているのは二つの新作、展覧会場に入って右手の壁に展示された「海は移動する」と、その正面、カーテンで仕切られた空間でプロジェクションされているマルチスライド作品「考えながら歩く」だ。

このように構成された個展=作品の背景には、6年前の「できごと」がある。作者松本美枝子によるステートメントに「私事だが、自分の立ち位置が大きくぐらついて、これは一体何ごとなのか、自分がいる場所はどうなってしまったのか、すっかり分からなくなってしまったことがある」と記された「できごと」である。それは「こう書いた私の気持ちが分かる人も、きっとたくさんいるに違いない」ものであり、「時間にしてたった二分ほどのこと」だというのだから、2011年の震災のことを意味しているのは、ほぼ間違いない。それでもあえてそれが個人的なことがらだったとでもいうように、「私事」という言葉が使われているのは、あらためてその「できごと」をめぐる作品として構成された今回の個展で、作者は世間で言われていることではなく、あくまで自らの経験と内面の実感とに立脚して、その「できごと」に向かい合い、語り始めようという意思表示なのだろう。

6つの作品がたがいに連関していることは、例えばそれぞれの作品に登場するさまざまな水面のイメージによっても暗示されている。冒頭の「手のひらからこぼれる砂のように」は、誰かのアルバムから複写されたらしい海岸でのスナップ写真による作品だし、続く壁面の「海は移動する」では、震災によって地盤沈下した茨城県北部の海岸がモティーフの一つとなっている(これは2011年の震災との関わりを明示した唯一の作品だ)。対面する二つの壁面に分割して展示された「船と船の間を歩く」は、鳥取県を日本海に沿って移動しながら撮影された沿岸の光景をめぐる作品。そしてマルチスライド作品の「考えながら歩く」には、川面のように見える大きな水たまりの印象的なショットが繰り返し登場するといった具合である。つねにゆらぎつづける水面は、今回の個展が扱おうとする、立ち位置が大きくぐらついた「できごと=震災」のメタファーと解することができる。

ゆらぐということでは、「考えながら歩く」に登場するスケーターの女性もまた重要なメタファーとしての役割を担っているように見える。「考えながら歩く」は、活動拠点とする水戸で震災を経験した作者が、同じように水戸やその周辺で震災を経験した人たちに当時の話を聴きながら、その対話を通じて浮かんできたモティーフを撮影していくという方法でつくられた作品である。対話の相手の一人であるそのスケーターの女性は、震災の数日後、原発の事故による放射性物質の拡散が報じられる中、あえてスケートボードを持って出かけ、ふだんと同じように街中で滑ったのだという。その様子を再現=再演して撮影されたイメージの中で、滑るボードを乗りこなすスケーターたちの姿は、ゆらぐ足もとと向かい合おうとする作品のテーマそのものの、すぐれた比喩になっている。

スケーターの女性の震災直後の実際の体験が、6年後の再演を通じて、この作品全体あるいは個展全体のテーマのメタファーとして織り込まれる。あるいは「海は動く」という作品で試みられているように、2011年の震災というできごとについて考えることから出発して、思考の射程を地球史的なスケールへと展開する。個別の具体的なことがらから出発し、より多義的で普遍的なテーマへと至ること。これは物語というものが持つ根源的な力であり果たすべき役割だ。人類は古来より、もっとも大事なことを物語の形式で伝えてきた。たとえば世界の成り立ちや民族の起源、あるいは必ず守られるべき価値などが、神話というかたちで語り伝えてきたように、である。

いろいろな意味で立ち位置が大きくぐらついた震災というできごとを、あえて身の回りの実感、つまり「私事」として語り始めようとした作者の試みは、結果的に、大事なことをメタファーに満ちた多義的で普遍的な物語として受け継いでいくという、人類が古来より繰り返してきた叡智のかたちを探りあてているのではないか。考えてみれば、「ここがどこだか、知っている」という語りは、世界の成り立ちについて語る神話、すなわち人類にとって最も古いタイプの物語における話型そのものなのだから。